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日本昔話 後編


Saturday, November 16, 2002
 

 しばらくすると、船越と私の間に徐々に不満が蓄積していきました。それは「敵がいない」というものでした。こう書くと甚だしく不遜なように聞こえますが、当時は私たちのようなトーナメント指向のプレイヤーは、ほとんどいなかったのです。塚本俊樹やフジケンですらまだ私たちの前には登場しておらず、唯一顔を合わせたNACは、「枯れ山水」というファンデッキでお相手してくれたため、私たちの目にはトーナメントプレイヤーには映っていませんでした。

 その上私のところには、インターネットのメーリングリストの情報が間断なくインプットされ続けていました。「それが何?」とか思われるかもしれませんが、当時ネットにアクセスできる人間は、ほとんどいなかったのです。やがて船越と私は、どこのコンベンションへ行ってもあまり負けなくなってしまい、最後には6月に開催された第2回東京大会で、それは実証されてしまいました。私は3回戦で船越と当たって負けてしまったのですが、船越はその後も順調に勝ち進み、決勝でNACを破って優勝してしまったのです。

この時点で私たちは既に、世界を見ていたのです。

 「これではいかん」と私たちは思いました。東京のトーナメント・シーンはレベルが低すぎる、というより、トーナメントレベルのプレイヤーがほとんどいない。船越と私がどんなに頑張ったところで、しょせん井の中の蛙。東京のトーナメント・シーンのレベルが上がらなければ、私たちのレベルも上がりません。

 こう書くと、「東京で敵がいないなら、それでいいじゃん」とか思われるかもしれませんが、この時点で私たちは既に、世界を見ていたのです。8月に世界選手権が開かれるのはわかっており、それに出場したい。単に出場するのではなく、できるだけ良い成績を収めたい。結局、この年の世界選手権には日本代表は参加できませんでしたが、翌年以降毎年日本人が参加して活躍しているのは、みなさんご存知の通りです。

 というわけで私たちは、東京のトーナメントプレイヤーたちを奮起するために、自らトーナメントを開催しようと考えました。誰も開いてくれないのであれば、俺たちで開くしかないじゃないか。こうして開催されたのが、Black Lotus杯です。1995年8月13日のことです。

Black Lotus
 トーナメント指向プレイヤーを量産するため、私たちはこのトーナメントに色々と仕掛けを施しました。まずは、優勝賞品を《Black Lotus》にすること。当時、これほど高額の賞品が懸けられたトーナメントは、私の知る限り他にありませんでした。次に、スイスドローを採用しました。「それが何?」とか思われるかもしれませんが、当時のトーナメントは、ほとんどすべてシングル・エリミネーションだったのです。それから、レーティングを計算しました。当時は、DCIこそ存在し、海の向こうではレーティングがきちんと計算されていましたが、DCIジャパンは未だ存在しておらず (1996年7月設立)、したがって日本ではレーティングを計算してくれる人がいなかったのです。

 ただの民間人でしかない船越と私にとって、このトーナメントは一種の賭けでした。賞品が高額なため、人数が揃わないと足が出てしまうのです。しかも、賞品代を捻出するため、参加費も1,500円と高額にせざるを得ません。ますます人数が揃わないのではないかと危惧されましたが、蓋を開けてみれば大盛況。そのおかげでこのトーナメントは、後に5つのMox杯、そして最後には「名人戦」へと繋げていくことができました。最初の1回がぽしゃったら、それで終了していたかもしれないだけに、この成功は大変励みになりました。また、レーティングの計算に混ぜてほしいといくつかの団体から要請を受け、それらの主催するすべてのトーナメントで、レーティングのデータを共有するようになりました。

 その甲斐あってかどうかは知りませんが、Mox杯と平行して、ホビージャパン主催の大会も各地で頻繁に開催されるようになりました。9月3日の札幌大会を皮切りに、10月1日の仙台大会、10月7日の第3回東京大会、10月10日の名古屋大会、11月26日の大阪大会、12月16日の静岡大会、そして12月23日の第4回東京大会。これによりようやく、日本にもトーナメント・シーンが形成されるようになりました。とはいえ、ホビージャパン主催の大会は、依然としてシングル・エリミネーションだったのですが。

 明けて1996年2月。最初のプロツアーである、プロツアー・ニューヨークが開催されました。最初のプロツアーにはPTQが存在せず、先着順受付という意味のわからない方法で参加者が募られましたが (2時間で売り切れたそうです)、運良く2人分の枠を確保できた私は、塚本俊樹とともに参戦しました。そういえば、渋谷オフビートができたのがいつだったかほとんど覚えてないのですが、だいたいこの頃だったんじゃないかと思います。とうとう代々木マックを追い出された我々難民を収容するため、塚本が自腹を切って渋谷に設立したのです。

 最初のプロツアーは、実に惨澹たるものでした。まず、真冬のニューヨークで開くという時点で既に意味がわからないのですが、当日ニューヨークがブリザードに襲われ、トーナメントの開始が4時間くらい遅れました。ちなみに外気温は-10℃。いい加減おうちに帰りたくなった頃に1回戦が始まりましたが、これがまたひどい。当時はDCIRなどという気の利いたものはなかったため、なんとジャッジが、ペアリングを順番に読み上げるという暴挙に出たのです。ところが英語圏ではない人が少なからずいたため (私たちももちろんそう)、読みがわからない。しかもプレイヤーは、全部で256人もいるのです。結局ペアリングの発表が開始されてから実際に1回戦が開始されるまで、実に1時間以上かかってしまいました。

 2回戦以降、彼らはやり方を変えました。ペアリングを読み上げるのではなく、テーブルの上に対戦カードを置き、各自自分のテーブルを探せ、と言いやがりました。会場は、まさに阿鼻叫喚の大混乱となりましたが、それでも1回戦よりは短い時間でペアリングが完了したため、以後ずっとその方式が採られました。

 この大会は、いわゆるニューヨーク・フォーマットと言われる不思議のフォーマットで開催されましたが、私は《ネクロポーテンス/Necropotence》《悪疫/Pox》がそれぞれ4枚ずつという、不思議のデッキで参戦しました。どうしてそんな変なデッキで参戦したのかよく覚えていないのですが、気がふれていたのかもしれません。塚本のデッキがどんなだったかもあまりよく覚えていないのですが、確か普通の白緑アーニーゲドンだったような気がします。

 ともあれ、4回戦終了時点で私たちはどちらも2勝2敗と、決勝進出の目がなくなったため、リタイアすることにしました。なぜなら、その時既に午後9時を回っていたからです。決勝に進出しなければ何ももらえないと思っていたからなのですが、64位までプロツアー・ロサンゼルスの参加権がもらえるとわかったのは、帰国してからでした。

 結局、この日は7回戦が予定されていたのですが、翌日聞いた話によると、6回戦終了時点で午前1時になっていたためそこでいったん打ち切り、7回戦は翌日午前8時から開催されたとのこと。私たちも決勝戦を見学するために翌朝会場へ向かいましたが、私たちが会場に到着した時には、既に7回戦が終わろうとしていました。

 とまあ、散々な目に会った最初のプロツアーでしたが、それでも収穫はありました。というか、むしろ非常に大きかったと言った方がいいでしょう。世界のトッププレイヤーと直接対戦できたこと。あるいは、彼らの対戦を見学できたこと。100%英語の大会でも、なんとかなったという自信。

 何にでも感化されやすい私は、このプロツアーに感化されて「2日制のトーナメントが開きたい」と思い立ちました。そうして企画したのが「名人戦」です。3月に開催された、おそらく日本で初めての2日制トーナメントであるこの大会は、結局私たちが主催する最後のトーナメントになりました。この後、6月の世界選手権日本代表決定戦に向けて、トーナメントを開いている暇がなくなったというのもありますが、7月にDCIジャパンが設立されたため、Mox杯はその使命を終えた、と考えたからです。しかしながら、東京のトーナメント・シーンを底上げしたいという私たちのスピリットは、NAC主催の「King of Magician (KOM)」が受け継いでくれました。

 1996年4月。ついに『第4版』の日本語版が発売され、いよいよプレイヤーの層が厚くなってきました。日本語版の発売を記念して開催されたトーナメントは、第2回プロツアーであるプロツアー・ロサンゼルスの予選を兼ねていましたが、個人戦プロツアーの予選のくせに、なぜか3人チームによるチーム戦のフォーマットが採用されました。もちろんプロツアーの参加枠は1人分しかありません。この不思議の大会を勝ち抜いてプロツアー・ロサンゼルスの参加資格をゲットしたのが、当時高校生の石田格でした。

とにかく2-0で勝つデッキを作る必要がありました

 そして6月、待ちに待った世界選手権日本代表決定戦が開催されましたが、この大会も不思議の大会でした。一応予選が開催されたのですが、なぜか3回ともすべて渋谷で行われました。しかも、本戦がスタンダードなのに予選はなぜかシールド戦で、その上デッキ登録も何もなかったため、色々不思議な現象が発生しました。たとえば、私は既に本戦出場資格を持っていたため、みんながデッキ構築している予選会場を意味もなくうろついていたところ、とある知人を発見しました。「やあ」と言って近づいて行くと、なぜか彼はカードをすべて隠し始め、私に見せようとしません。ところが1回戦が終了してから再び彼に会った時、彼は大喜びで「鶴田さん、見て下さいよ! こんなすごいデッキができましたよ!」と私にデッキを見せてくれました。確かにすごいデッキでしたが、私は敢えて何も言いませんでした。

 本戦はスタンダード6回戦のスイスドローで、この大会はホビージャパンが主催する初めてのスイスドローの大会だったわけですが、タイブレイカーが現在のようなオポーネント・マッチ・パーセンテージではなく、「勝ちゲーム数-負けゲーム数」だったため、とにかく2-0で勝つデッキを作る必要がありました。

 塚本、NAC、船越、私の4人は、日本代表の4人になるべく、渋谷オフビートで毎日デッキを磨きました。船越と私は、自ら「タイム・デストラクション」と名付けた、4色茶単みたいな奇妙なアーティファクト・ロック・デッキをチューニングしていました。NACは白緑のアーニーゲドンっぽいデッキ。塚本がどんなデッキを使っていたかは、まったく記憶にありません。

Necropotence
 残り1週間を切った頃、私はメーリングリストから「ネクロディスク」を拾ってきました。その強さは、まさに驚異的。私は、下手すると1-0で時間切れになりかねないタイム・デストラクションを放棄し、ネクロディスクを使うことにしました。塚本も同じくネクロを使い、船越はタイム・デストラクション、そしてNACのデッキは、いつの間にか白緑から赤緑になっていました。

 当日私は、1回戦は2-1で勝ったものの2回戦を1-2で落とし、もうだめだと思いました。一方私以外の3人は順調に勝ち進み、ついに5回戦で塚本と船越が全勝対決、塚本が勝ちました。この時点で、まだ1敗しかしていないにもかかわらず、勝ち点の少ない船越が代表になれる可能性は、ほとんどなくなってしまいました。

 最終戦、全勝の塚本とNACはIDすればよいわけですが、当時はまだIDがルール化されていなかったため、一緒に代表になりたかった二人は、全力をつくして1-1のドローに持ち込みました。なぜなら、1-2で負けると代表になれない可能性があったからです。一方私は、ほとんど絶望的な状況から不思議の2-0四連荘で、奇跡の代表権をゲットすることができました。船越は、最終戦は勝ったものの無念の6位となり、4人揃っての代表権獲得はなりませんでしたが、4人中3人は代表権をゲットすることができました。

 真木から「世界選手権日本代表決定戦まで」と言われたので、このしょうもない昔話はここで終わります。グッバイ、アディオス、さようなら。



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